◆7時半に夫を見送って、娘を9時半の登園バスに乗せると、ようやく朝の慌しさが一段落する。
家に戻って、暁美はリビングのソファに腰を下ろし、ハーブティを口にした。妻と母親という役割から開放され、自分に戻れる唯一の時間、午前10時。
夫は優しいし、娘は元気で素直に育ってくれている。そのことはとてもうれしく思っている。なのに、今、窓の外に広がる空を見つめて、ため息をついている自分に気づく。
独身の頃、結婚したら毎日を優雅に過ごせると思っていた。凝ったお料理に手作りのキルト。ベランダには花を絶やさず、週に二度はお稽古ごとをして、月に一度は娘を預けて夫とデートをする・・・。
でも、現実はままならない。
毎日毎日、これでもか、というぐらいしなければならないことが待っている。朝食の後片付けを終えたら、布団を干して、洗濯をして、掃除をする。
今日はお風呂のカビ取りと、古新聞をまとめる作業が待っている。そうしているうちに、もう娘のお迎えの時間だ。
一緒にスーパーで買い物をして、家に帰ればすぐに夕食の準備にかからなければならない。幸福という名のついた手強い日常。
私が欲しかったのはこれ?
こんなことを考えてしまうのも、昨日、学生時代の同窓会に出席したせいだ。会場となったレストランで、久し振りに遥子と顔を合わせた。
遥子とは、独身の頃、とても仲良くしていた。ショッピングにも旅行にも、よく一緒に出掛けたものだ。それなのに、最近は会えるチャンスがすっかりなくなってしまい、昨日を楽しみにしていた。
遥子は今もって独身で、ばりばり仕事をしている。まさに、そのイメージ通り、颯爽として現れた。その姿が眩しかった。
そして、少し、胸がざわざわした。
(12月4日付読売新聞 連続広告小説
「午前10時に竹内まりや」作・唯川恵 第1回より)
◆遥子は毎日、朝8時には出社するようにしている。
始業1時間前だが、そうしないと仕事が片付かない。注文書や納期変更、問い合わせのメールなどを一つ一つ処理してゆく。
面倒でも、これも自分の仕事である。これが一段落するのが、だいたい午前10時。
遥子はホッと息をつき、それからこっそりデスクを離れた。7階フロアの奥にコーヒーの自動販売機とスツールがある。
ここでのひと時が、仕事から離れて自分を取り戻す貴重な時間。もちろん仕事は大好きだ。残業もあるし、出張もあるし、時には休日出勤もあるけれど、自分で言うのも何だが、頑張っている。
今日の午後も、全体ミーティングがあり、週末の売り上げ報告と、次週の売り上げ目標、納期の遅延、企画変更んど、各部門の上司の前で報告しなければならない。
仕事は充実感も達成感も与えてくれるし、やりがいもある。続けて来て良かったと思うし、これからも続けていこうと決めている。
でも今、気がつくと、ため息をついている自分がいて、思わず首をすくめてしまう。
まるでコーヒーから立ち上がる湯気のように、私の心を曇らすものは何?わかっている。昨日、同窓会で暁美と会ったせいだ。
仲の良かった暁美と久し振りに会えるのを楽しみに出掛けたはずだった。なのに、会った瞬間、気後れのようなものを感じていた。
だって、暁美の笑顔があまりに幸せそうだったから。私の知らない、私の持ちえない、とっておきのものを手にしている余裕の笑顔に見えたから。
紙コップのコーヒーに口をつけながら、遥子はぼんやりと窓の向こうに広がる空を眺めた。
(12月5日付第2回より)

◆「幸せそうね」と、あの時、遥子に言われて、暁美は思わず苦笑した。「おかげさまで」
けれども、そう言われるとやっぱり嬉しい。
「ファッションもすっかり落ち着いちゃって。そのツインニット、よく似合ってる」
「そう?ありがとう」
この日のために選んだものだけれど、ちょっとカジュアル過ぎたかもしれない。遥子の細身のジャケットに較べたら、いかにも主婦ってスタイルだ。
もしかしたら、皮肉が入っている?
「こうして集まってみると、みんなほとんど結婚しちゃったのよね」
周りを眺めながら、遥子が呟く。
「でも結婚組は、独身組を羨んでいるんじゃないかしら」
「そうかな」
「だって自由で自立していて、何でも自分で決められるんだもの。独身組にはオーラが出てる、遥子を筆頭に」
「あら、結婚組も幸せオーラが出まくりよ」
「仕事、楽しいんでしょうね」
遥子は大きく頷いた。
「うん、すごく楽しい。実はこの春からチームリーダーになったの。部下も出来て、責任は重くなったけど、その分、やりがいもあるし」
「へえ、すごいのね」
刺激のある毎日を過ごしている。そんな遥子の話しを聞いて、暁美は自分の変わらない日常と較べ、何だかいたたまれない気持ちになった。
「遥子は強いから。私なんかぜんぜん駄目。結局、夫に守ってもらえる主婦が一番似合ってるの。ただね、子育ては楽しいわ。毎日いろんな発見があるのよ。子供って、本当に可愛いの」
「そう」遥子の笑顔に、ぎこちなさが加わったような気がした。
(12月6日付第3回より)
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